静止と動き

健康と病気

静止と動き

新たな体験

人は人生において、自分の体験、信じていること、そして思い込みや先入観に基づき≪これは当然だ≫とみなす、ある種の見かけ上のバランスの状態に落ち着いてしまう傾向があります。

しかし、「日常生活に影響を与え、条件づけようとする、文化、道徳、慣習的な要素から成る複雑な階層」から出て、より広い新たな世界を発見するためには、探求の姿勢が必要です。

私たちは、何歳になっても、若々しくいることができます。

人は「若々しい状態で生きている限り」、「自分の考え、さらには自分の性格を変えながら、成長し、成熟してゆくこと」ができます。

若い年代に特徴的である「冒険心、発見したいという心、常に新しい経験を求める気持ち、変化への欲求」が表れ、それによって「新たな体験の機会」がもたらされます。

これは、一見非合理的な感情/感覚であり、既存の社会からは、理想主義的、非現実的、抽象的、あるいは危険なものとさえ見なされています。

しかし、これは、個人が誕生して以降、遊び、空想、シュミレーションなどを通して経験してきた人生のアプローチであり、このような感覚によって、この物理的な現実とは異なるサトルな現実への参画、一体化が生み出されるのです。

絶え間ない変容という原則を受け入れ、それを生きることは、人間にとって自然で根源的な衝動であり、遊びは、そのための根本的な要素です。

遊びは大胆なシミュレーションを可能にし、既知のもの、慣習的なものの境界を超えて、精神を飛躍させることを促します。

変化への衝動

現代の文化的状況の中で、人はいわゆる「大人」へと成長していきます。

しかし、そこでは、周囲のあらゆるものが、規範化と安定化へと導くように作用します。

一般的な考え方、道徳、そして社会通念や常識といったものが、人間を制約し、克服しがたいものを生み出します。

そのため、人は、社会的な規則や行動規範によって、自分自身をある特定の地点、つまり静止したままに保とうとする相対的な位置に固定化させる傾向があります。

外的なレベルでは、目標を達成し、成功、地位、承認を得ようとする欲求が刺激される一方で、内面的な深いレベルでは、生来の変革と変容への欲求が内なる衝動を生み出し、外的な要素によって形成された固定化された人格を疑問視します。

つまり、存在の静かな場所が形成され、それがもたらす制限のために葛藤が生じる一方で、外部や内部からの不安定化をもたらすあらゆる攻撃(つまり固定化した状態を壊し、動きを起こそうとする働き)から、要塞のように守られてしまうのです。

このようにして固定化してしまった思考と自己イメージは、投影され、反映され、自分が生きる現実に浸透し、対人関係の力学によって、さらに強化される行動状態を生み出します。

しかし、私たち一人ひとりの心の奥底には、潜在的であろうと、それがほとんど目に見えないであろうと、不安定さへの欲求、変化への衝動、創造への欲求が依然として存在します。

大衆が様々な行動や消費を促され、抑圧された冒険心、目新しいものへの欲求を刺激されているのは、決して偶然ではありません。

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習慣と見かけの安心感からなる精神的に静かな場所、コンフォートゾーンは、物理的なレベルでも、サトルなレベルでも、それに対応した固定化の現象として現れます。

身体、オーラ、そして感情はそれぞれ対応する状態に固定されてしまい、その結果、アンバランスでありながら常態化し習慣化されてしまった、一連の行動を生み出します。

私たちは強制的な均衡状態に慣れてしまい、その中で時間を止め、内なる家を築き上げます。

しかし、私たちの中には、家など必要ありません。

繰り返される身体の不調、解決の出口が見つけらない矛盾した見解や視点が繰り返し再生産され、悪循環を生み出し、まるで際限なく広がり続ける迷宮のような状態を作り出します。

これは人格形成における全般的な停滞を招き、それ以上の成長や成熟を不可能にしていきます。

偶然起こる出来事─典型的には心的外傷や事故

その人が陥っている居心地のよい静止状態から揺り起こされ、新たな視点で物事を考察できるようになるためには、多くの場合、一見するとネガティブで、衝撃的で、偶然生じたように見える外部の出来事が、事実上、強制されます。

病気だけでなく、心的外傷や事故も、決して偶然ではありません。

変化への意欲はあるものの、継続的に変化を起こすための精神力に欠ける個人は、しばしば自らにこれらの出来事を招き、行動や目標を変えざるを得なくなります。

秘教、心身医学、無意識の世界の仕組みを研究する人たちは、「シンクロニシティとは、因果関係のない意味のある偶然の一致であり、個人が自分の中に新しい要素を取り入れたいと思っても理性的にそれに従うことができないときに本能的に頼ることができるものである」と言及しています。

したがって、偶然というのは、見かけ上のものに過ぎません。

なぜなら、事故、病気、あるいは心の崩壊を引き起こすような出来事は、しばしば冷徹な決意をもって求められ、望まれ、呼び起こされたからです。

健康なイメージと健康な人格

スピリチュアルヒーラーが行うプラノテラピーにより、内なる成長が阻害され、それに対応する外的な兆候が現れている個人のイメージ周波数に働きかけることで、ダイナミックで調和のとれた状態を生きる健康な個人のイメージが作り出されます。

私たちが病的と呼ぶ静的なイメージが特定のリズム、周波数で振動するのと同様に、プラノテラピー、そして自己治癒を通して、新しい健康的なイメージがサトルなレベルで現れ、成長し始めます。

最初はまだ不安定で漠然とした輪郭しか描けなかったこの新しい振動イメージは、次第に明確になり、より多層的になり、ついにはあらゆる側面において健康な個人と一致します。

それは、現実の個人の≪幻影─分身のようなもの≫であり、未来つまり確率の領域への象徴であり、投影なのです。

健全なイメージは、媒介を必要とせず、振動的な接触を通してその人のオーラに刻み込まれ、直接指示を与えます。

その瞬間、病んだイメージはより強く残り、肉体レベルにまで顕現し、そこで病気を引き起こします。

健全なイメージは病んだイメージに教えを授け、新たな識別コードを伝え、肉体、精神、サトルなレベル間の対応関係を解放し、それぞれの次元が互いを遮断している一方通行の道を、活力に満ちた、建設的で解放的な衝動が渦巻く太い動脈へと変容させます。

健康なイメージは、病んだイメージに進むべき道、引き起こすべき変容を明確に示し、さらにはシンクロニックな出来事を探求するようインスピレーションを与えます。

このようにして、健康な人格が自己を確立し、現実世界での状況を変えることができるのです。

これは極めて複雑な作業であり、徐々に実行されなければなりません。

ヒーラーには経験と、深い精神的な準備、そして何よりも洗練された高次のエネルギーとの接触が不可欠です。

これらすべては、個人の自由意志という根本原理を守りながら行われます。

これは、究極的には、個人が進むべき方向、その人に影響を与える出来事、ひいては健康を求めるかどうかを決定する支点であり、天秤の針なのです。

ヒーラーが最初に学ぶことのひとつは、癒しや健康に対する各人の最初の抵抗が、どれほど強いかということです。 

病気は常に停滞であり、健康は常にダイナミズムです。

初期の無意識の抵抗はいわば生理的なものですが、多くの病人にとって、それは治癒への拒否と発展し、プラノテラピーは単なる補助的なサポート療法になってしまいます。

だからこそ私たちは、その人自身の人生に対する決意と、真に治癒を願う意志の重要性を改めて強調するのです。

それは、その人自身が、治るということに対して、役立つ気があるのかどうか、とも言えます。