健康と病気
病人
病気と病人
空想上の病気も、本物の病気も、存在しません。あるのはただ病気です。
というよりも、存在するのは病人だけです。
たとえその病気が、明らかに周囲からの注目や同情を得るため、自分が大切にされていると感じるため、あるいは他人を支配するための行為を正当化する手段である場合でも、つまり、病気という名目が都合良く身勝手に利用されているだけで詐病に思える場合であっても、私たちはとにかく 、その人をそのような不調和な行動に駆り立て、ひいては直接的または間接的に病気へと至らしめる忌まわしい状況に遭遇しているのです。
この病気は、否定的なことばかり考えている人、病気を正当化するための理由を探す人、自分で自分を悪くさせる人、あなたは病気ではありませんと言われても、決して受け入れようとしない人々にも発症します。
実際に、あるいは想像上で自分が不当な扱いを受けたからと、自身の不健康さを利用して人々を罰しようとする人も、病気であるのと同じです。
このようなケースはたくさんあります。
調和が崩れることは、病気です。
多くの場合、病気になる人は、罪悪感を感じている何かに対して自分を罰するため、自分の不完全さや失敗だと感じていることから自分を罰するため、あるいは自分への失望を表現し自分から距離を置くために、病気になるのです。
人が病気になる理由は千差万別で、心因的なものから退屈から来るものまで、様々です。
病気ではなく、病人が存在してるのです。
これは、さきほどの例に示したような心理的なケースにおいても、症状が実際に体に現れているケースにおいても、同様です。
病気に対する意識
心身の障害、疾患として診断される病気はカテゴリーに分類できるものですが、病人一人ひとりは宇宙における唯一無二の存在であり、繰り返すことのできない出来事であるがゆえ、それぞれ固有のアクセスコードを通して癒しへと導かれる必要があります。
したがって、治療的な介入も、正しく調整されなければなりません。
エネルギー伝達を行う前も、─そのエネルギーがプラーナ・ベースであれば、その人の周波数で現れるはずですが─ その人が病気に対して意識を向けるように導く必要があります。
病人は、治りたいと願ったその瞬間から回復に向かい始めます。
ただし、治りたいと願う瞬間は、治療を開始する瞬間とほとんど一致しないということに、注意が必要です。
それは、本人が元気でいたい、活動的でありたい、自分自身のエネルギーをコントロールし、前向きな気持ちでいられるようになりたいと願う瞬間と一致します。
人は症状による不快感を取り除くために治療を受け始めますが、治療の最初の成果は、健康になりたいという願望が生まれることなのです。
あらゆる病気から、私たちは少しずつ成長し、成熟することを学ばなければなりません。
目標は、「苦しみではなく喜びを通して完全な健康を通して成熟すること」ですが、これはじっくりと熟考し、理解する必要のある概念です。
ヒーラーと患者の関係性
健全なヒーラーは、苦しんでいる人に、治癒の可能性を証言し、肯定します。
それゆえ、患者はヒーラーに人間的な支えを望み、それを受ける権利があります。
しかし、自分に起こったこと、自分の父親、母親、子どもの身に起こったこと、同僚、上司、彼らがどれほどひどかったかを、ヒーラーに話したがる人たちがいます。
それは、かえって、病気を悪化させてしまうことになるでしょう。
ヒーラーの支えを受けることと、ヒーラーに自分の思いや問題を押し付けることは、違います。
病人は、病気を通して人生のあらゆる側面と向き合い、静止した均衡を破壊し、解決し、変容させなければなりません。
そして、それを必ず自分自身で行う必要があります。
他の誰もその人に代わってそれを行うことはできませんし、このような完全なプロセスを経なければ、真の治癒について考えることもできません。
理解を得るということは、「今ある問題への対処を先延ばしにするだけなら、感情を発散することを許さない友人」をヒーラーの見つけるということです。
それは時に、厳しい規律を要します。
あらゆることを理解し、受け入れて欲しいという要求は、病気がもたらす「変化への意欲」を阻害する危険性があり、その場合、それはかえって限界となります。
吐き出すエネルギーはむしろ、常にその人自身の自己分析へと向かうように導かれるべきです。
「問題を直視し、解決することができるのは患者自身であり、ヒーラーではない」という原則は、常に変わりません。
患者はヒーラーに対して、「病気がもたらすメッセージに対処しようとする自分自身の努力が適切かどうか」確認を求めることができます。
あらゆる病気は、治癒への抵抗を伴います。
これは思考の狭まり、世界からの孤立、他者からの孤立(これはすでに現実的に起こっていることであり、思考という観点から見れば顕著です)、そして明晰さと知的鋭敏さの喪失を通して、自分自身からの孤立として理解されます。
ヒーラーとの関係は、内省を促す役割も果たし、プラーナの介入の準備になります。
そしてプラーナは、すでに精神的、およびスピリチュアルな要素が正しい方向に向けられた個人の中で現れます。
これは理論的には、治療者であるか否かを問わず、誰にも備わっている能力ですが、病人は当然のことながら、特に自分を治療してくれる人にその能力を自然と認めようとする傾向があります。
優しい言葉は重要ですが、役立つ言葉はそれ以上です。
(そのために、私はここであなたへ書いています!)
だからこそ、私たちは「病気の原因と病気の克服への道筋について、効果的に内省を促す方法を知っている人々」のことをスピリチュアルヒーラーと呼ぶのです。
病気の拒絶と軌道修正
病気は、病人自身の一部なのでしょうか?
病気は病人、患者とは別のものです。
その人のものではなく、独自の周波数を持つものでもありません。
しかし、その時、病気はその形態、周波数を最も忠実に反映しています。
病気はその人の思考の産物であり、その思考が病人の態度を生み出しているのです。
つまり、病気を拒絶するということは、ある意味では自分自身の一部、たとえ部分的で歪んだものであっても、自分自身の表現を拒絶することを意味します。
病人は、自分に起こっていることを拒絶しないように、自分自身に教育する必要があります。
病気は歪んだ鏡です。
その鏡は自分自身の醜悪な姿を映し出しますが、同時に自身の基本的な特徴、つまり目、口、しわ、そして固定観念、悪い習慣、障害も認識することができます。
病人は鏡の前に立ち、自分の真の姿をイメージして思考で再構築し、視覚的な歪みを修正して自分が知っている望む顔を心の中に作り上げる意志を持たなければなりません。
その望むイメージを鏡に映し出し、苦しんでいるイメージに重ね合わせます。
そして、何とかして、心の中で再構築したイメージに微笑みかけるのです。
病人はしばしば、病気や痛み、そしてそれらがもたらす制限を拒絶します。
これが、スピリチュアルヒーラーが最初に行える軌道修正です。
もちろん、病気は私たち自身ではありませんが、それでも私たちの中にあるもの、つまり私たちの一部からできていて、私たちに似ていて、それを克服するために活用できるのものなのです。
それは、病気を愛するということでしょうㅤか?
いいえ。病気である自分自身を愛すること、病気を理解すること、すなわち自分の中にいったん病気を受け入れ、それを消化させて、やがて入れ替えるように、2度、変化させることです。
まずは病気自体を「病気がもたらしてくれる教訓」へと変え、次に「以前よりもさらに健康な状態」へと変容させるのです。
