プラノテラピーと自然療法
健康の原則
人間の独自性
健康問題を大衆的に管理し、極端な専門化を選択すると、社会的な観点からだけでなく、治療の観点からも、明らかな禁忌が生じます。
病気の引き金となる原因や病気が生体に引き起こす力学を無視し、病気における心理的および感情的な影響を過小評価し、個人内のバランスを崩すことで、逆に症状が悪化したり、副作用が生じる危険性があります。
病院に行くのが悪いのではなく、その治療法が単に症状を取り除くだけのプロセス、つまり(別の)症状への置き換えに過ぎないものではないことを見極める必要があります。
なぜなら、病気は根本的に解消されない限り、しばらくすると新たな形で再び現れるからです。
まず第一に、人間一人ひとりは皆同じではなく、それぞれが独自性、特徴のある、唯一無二な存在です。
人間はその顕現の全体において、まさにそのような存在なのです。
人間一人ひとりは、内なるミクロコスモスと外なるマクロコスモスの統合であり、その表現です。
それが、その人の物理的な身体、容貌、顔立ち、その際立った独自性そのものが写し出しされているのです。
その独自性は、「その人の性格や記憶に埋め込まれた経験の独自性」であり、「その衝動、欲望、傾向の独自性」であり、
「その精神的、認知的、そして意志的なプロセスの独自性」であり、「自己認識と思考のレベルの独自性」であり、そして、最終的には、「その人の進化のレベルの独自性」です。
そして、「その人が生きている社会的、文化的、歴史的、地理的、人種的な環境、その人が属する思想と生活のシステム、その人の慣れ親しんだ物質的および行動的条件」があり、それらがその人を教育し、条件づけています。
人間の神秘、謎
究極的に、人間のその顕現は、探求の余地を残す、広大な暗い空間でもあるべきです。
それは人間という存在が持つ、直感的には感じ取れるもののほとんど解明されていない偉大な神秘、謎を表しています。
それは時に謎めいて現れ、空想や直感、知覚、あるいはあり得ない出来事を通して突然その存在をほのめかす、深く隠された部分です。
スピリチュアルヒーラーは、クライアントが自分自身や自然との調和を取り戻し、完全で健康的なバランスを達成できるように導きます。
それには、以下の3つの根源的な問いについて深く考える願望も、含まれます。
「私は誰なのか? 私はどこから来たのか? 私はどこへ向かっているのか?」
(しかし、どのような答えにたどり着くのか、そしてどのような道筋を経てそこにたどり着くのかは、ヒーラーが介入するものではなく、その人だけが至るものです。)
人間の全体性 ホリスティックな原則
自然療法を定義するのに重要な点は、「一人ひとりが唯一無二であるがゆえに再現性がなく、その人に合った治療法が必要である」ということを考慮していることです。
つまり、すべての人に共通する同一の治療法は存在しないということです。
したがって、自然療法とは、何よりも「生命の根本原理への理想的な回帰」であり、「あらゆる現象が相互作用し補完し合うという生命の独自性を、特に重視するもの」です。
その根底には、「人間の全体性」という原則、ホリスティックな原則があります。
この観点から、自然療法に対する志が、真に動機づけられたものか、それとも単に流されたものなのかを見極めることができます。
形式的には自然であるかのように見せかけながらも、実際には真に自然療法であるために必要な方法論や考え方を満たしていない治療法、治療者などがあります。
例えば、野菜ジュースを飲むことが、自然療法を実践しているわけではありません。
人々が、「自分自身に対する態度や人生への向き合い方を改めることが不可欠である」ということを理解しないまま、こうした治療法につい頼ってしまうのを防がなければなりません。
そして、その役割を担うのが、スピリチュアルヒーラーです。
健康の創造者としての責任
薬に確かな安心感を抱き、慣れ親しんでしまっている現代の文化にとって、また、診断と治療をより知識豊富な他者に委ねることに慣れてしまった人々に、尊厳、理解、そして自己認識を取り戻すというコンセプトを取り戻すことは、困難なことかもしれません。
しかし、「これらの責任を、自分自身の健康の受益者、創造者、そして維持者」として、私たち一人ひとりに再び取り戻すこと」が大切なのです。
適切な自然療法の根底には、一人ひとりの主体性、つまり自己管理に対する個人の責任というものがあります。
よって、人は、このようなことを最もよく理解しており、治癒への道筋を示してくれるヒーラーの元を訪れることになります。
しかし、それは「癒してもらうことを求める」のではなく、「自分自身や自然との交流と平和の関係の中で、癒しを助けてもらうことを求める」ということです。
