一人の自分と多数の自分

人間とスピリチュアリティ

一人の自分と多数の自分

スピリチュアリティの定義

人間は群れをなす動物であり、環境や仲間との交流や関係の中に調和的に組み込まれることによって、完全な表現と達成感を見出す社会的な存在です。

スピリチュアリティの最も優れた定義とは「自己の意識を拡大させ、より多くの生命の形態を取り込み、それらの存在に参加すること」です。

動物、植物、他の生命達の意識

すべての存在は、同時に複数の経験をしていると言われています。

つまり、私たちはいわば一人の人間であり、一本のモクレンであり、一匹のマスであり、これら3つの同時的なチャネルを通じて経験を続けており、互いに入れ替わることはないけれども互いに影響し合う能力によって、密接に結びついています。

私たちと魂を共有するマスを釣り、それを食べることで自分自身を滋養したり、モクレンの樹の下に横たわり、自分自身の木影で休んだりすることも起こり得ます。

これらは、生命の独自性と、私たちがそのあらゆる形態と調和する必要性を強調する、魅力的な仮説です。

もし、私たちが自分たち自身を「複数の形態に存在を与えるひとつの生命の束」として想像するならば、私たちはこれまでほとんど考慮してこなかった自分自身の多くの部分に、さまざまな考慮を払うようになるでしょう。

私たちは複雑なシステムの住人であり、異なる種をつなぐ架け橋でもあります。

私たちが何者であるかを正しく定義できるのは、一枚岩的な存在の中にではなく、多様な起源の共存の中にあるのです。

動物であれ、植物であれ、その他の生物であれ、それらの存在たちは、私たちの多面的な性質と、様々な生命の表現における相互の関連性を反映しているのです。

実際、自分自身を注意深く観察し、同時に時の流れに身を任せながら、生きている≪自分自身を眺める≫ことで、私たちの中にいかに異なる性質が共存しているかが、すぐに明らかになるでしょう。

様々な人格─複数のパーソナリティ達

1つ目に、私たちの肉体的な性質とエネルギー的な性質というものがありました。(肉体とオーラ)

2つ目に、私たちがさまざまな物理的な形態に参加していることがあります。(様々な生命の形)

しかし、自分自身を振り返る際に、この論理にはもう一つ注目すべき側面があります。

3つ目は、私たちの中には、さまざまな人格が同居しているということです。

私たちは、多くの人々から成る一個人であり、多くの異なる人格から成る一種の集団なのです。

私はここで、特定の性格的特徴や意識状態の変化、あるいは最も気まぐれな気質が示す予測不可能な性質について言及しているのではありません。

私が言っているのは、「私たち一人ひとりというのは、個人のの内面で活動する集団の働きの結果であり、その集団は明確に区別された別々のサブ個人から構成されている」ということです。

著名な心理学者たちも、人間の精神の中には、複数の人格、つまり異なる瞬間に姿を現す独立した人々が存在し、それらの関係は人と人との関係に似ている、と言っています。

つまり、ある人格は互いに共感し合い、ある人格は互いに憎み合い、ある人格は命令する傾向があり、ある人格はめったに姿を現さないといった具合です。

私たち一人ひとりの中には、若い人格と年老いた人格、≪グローバル≫な人格と専門的な人格、健康な人格と病気の人格がいます。

1つだけのデータベース(メモリ ─ コンピューター ─ 脳)、そして多数の異なるオペレーターがいます。

人格たちは時間によって入れ代わり、運転席、つまりコントロールルームに座り、全体の方向性を指示する傾向があります。

少し考えてみれば、どんな人の中にも、何より自分自身の中に、物事へのアプローチ方法の違いや、予想外の衝動的な行動、普段とは違う行動をとってしまうのを目にしたことがあるはずです。

これは、人格が突然変わったり、自分の人格のある一面が突然目覚めたりした結果である可能性が高いです。

人生のある時点で大胆な選択をし、人生の方向性を決定的に変え、予想外の傾向を示す人々。

人生の後半になってから、その人の経験に決定的な影響を与えるような人格の持ち主が現れることはよくあります。

もし、私たちが自分の内面にもっと注意を払い、自分たち自身を切り離して何が起こっているのか見ることを学べば、自分の中にいるさまざまな人間を区別し、彼らを認識し、それぞれの異なる行動を区別することができるようになります。

もし私たちが自分の内面に注意を払い、自分の中で何が起こっているのか見ることを学べば、自分の中にいるさまざまな人間たちを区別し、彼らを認識し、それぞれの異なる行動を区別することができるようになります。

私たち一人ひとりの中には、強烈に自分を表現する必要性を感じている人、芸術家がいます。
その人は自分にとって不可欠なスペースを見つけることができているのでしょうか?

それとも私たちはその人をを押さえつけていないでしょうか?

私たち一人ひとりの内には、自然との触れ合いを通して生きる力を得ている森の人がいます。

彼は当然の報いを受けているのでしょうか?

それとも、私たちは彼に、息苦しく、汚染された、窮屈な肉体的・精神的スペースで生きることを強いているのでしょうか?

一方で、私たちの中には非常に怠け者の人格もいるでしょう。

その人ががしばしば主導権を握り、自ら率先して動くことを阻害してはないでしょうか?

といったように、私たちは共同住宅であり、調和的に暮らすために、共同で住む方法を学ばなければなりません。

個々の入居者に、他人を尊重する態度を教育し、やっかいな、怠け者の、権威主義的な人物を避けるようにします。
―ただし無視するのではなく、代わりに彼らに変化を促すのです―
そして、より友好的で、創造的で、楽観的な人々を頻繁に招き入れることです。

まず、私たちの中に存在している様々な人々、深いところでは知っていた人々や、自分たちの仲間だとは思いもよらなかった人々について知ることから始めましょう。

自分自身との調和への道

自分自身との調和への道、つまりプラノテラピーの道は、困難ではあるものの、非常にやりがいのある道です。

なぜならば、その道は広大で思いがけない景色を見渡すことができる展望へと開かれており、一見すると驚かされるものの、後にその景色が私たちの記憶、痕跡、人生の一部であると認識するに至るからです。